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新いろは歌八十八景

           〜尼 崎 か ら 始 ま る 冒 険〜

                       中村菜花群

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≪1≫

          自 転 車 走


   我羽得けむ 自由求め

   思ふに任せ ペダル漕ぎ

   強さ成す陽や 空の青

   道熱りゐぬ 遠路行く


         われはねえけむ しいうとめ
         おもふにまかせ へたるこき
         つよさなすひや そらのあを
         みちほてりゐぬ ゑんろゆく    〔平成二十一年八月十四日詠〕


【 第一景 】〜創作メモ〜 〈写真は大阪府豊中市南空港町・千里川にて〉

 二つの車輪に乗せて、私の旅は始まる。サイクリング車などという気の利いた物はない。前籠のあるごく普通の自転車、いわゆるママチャリ≠ノひょいとまたがり、ちょっとそこまで買い物にでも出掛けるような軽い感覚で、ふらりと家を出発する。

 このあいだは西へ行ったから今日は東へ行こう、先週は山の方を回ったから今度は海沿いをたどろう、その程度のおおざっぱな予定だけで走り出す。目的地は特にない。気分次第、ハンドルの向くまま行きたい方へ行く。空は青く晴れ渡り、なんという開放感! ありふれた日常を離れ、目の前には自由の別天地が広がっている。

 信号もない、規制もない、自動車の来ない道を選んで走る。大通りの喧騒から離れ、区画を一つ内へ入ると、そこはもう安らぎの生活空間。意外なほど静かな町並み、子どもの頃を想起させる家々が続く。下町の古い商店街通り、民家を縫う細い路地、思いがけない枝道、抜け道、水路に沿った遊歩道、花の小道に川辺の並木道……。土手上の道路をスイスイ進めば、ツバメになった気分。家々の屋根を見下ろしつつ、低空飛行を擬似体験する。

 強い陽射しがギラギラ照りつける八月の午後などは、無性に遠乗りがしたくなる。汗をかき、風を切り、炎暑を突き抜け、まぶしい光に身を曝す。季節を肌で感じ、太陽が浸透し、胸の奥までシーンと澄み渡り、陶酔境を味わう。

 自分は今、真夏の真っ只中にいるのだ――。
 例えばそんな、生きている実感を得たいために、私は遠い道程を、幾度となく車輪に任せて走り続ける。



≪2≫

          庄 下 川 始


   我を招いて 猶行ける

   河川寄り合ふ 所に居

   空見目笑むや 先思ひ

   X橋の 上立ちぬ


         われをまねいて なほゆける
         かせんよりあふ ところにゐ
         そらみめゑむや さきおもひ
         えつくすはしの うへたちぬ    〔平成二十一年五月十一日詠〕


【 第二景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市南塚口町・高松橋よりX橋を望む〉

 わがまち尼崎の中央を流れる川が「庄下川(しょうげがわ)」である。その庄下川がどこで始まりどこへ流れてゆくのか、ふと興味を持ち、去る五月の休みに自転車で追ってみた。

 町なかの川というのは、広い道路の下をくぐるなどして水面が全く見えない場所が多くある。川は区域によって分断され、横切って渡る≠アとはあっても沿って走る≠アとは少なく、長いものとしての認識が薄いようだ。土手や河川敷のある大川なら、ごく自然に一筋の水流をイメージできるが、生活圏を流れる水路となると、何かの必要がない限り、遠い上流や下流の方をほとんど顧みることがない。考えてみれば不思議である。

 庄下川を一本の川として把握しよう――、それが今回の動機付けとなった。
 伊丹を流れる金岡川は、尼崎に入って東富松川となり、阪急電鉄神戸線を南へ越えたあたりから、今度は庄下川と名を変える。線路から少し下流に行くと、東富松川、富松川、西富松排水路、三川の合流地点があり、そこが庄下川の、本来の起点らしい。

 その合流点をまたぐ鉄の橋が「X橋(エックスばし)」で、川の上に「X」の字形に架けられているため、通称でこう呼ばれているとのこと。そこへ到着した私は自転車を降りて橋の上に立ち、発走前の第一走者になった気分で、しばし川面を見つめる。ここからひたすら川沿いに、ペダルを漕いでゆくわけである。

 結局このあと、「庄下川は海へは注がず、松島排水機場に消え、川の水はポンプによって左門殿川へ放出される」という事実を知ることになる。そこへ至るまでに、X橋から延々二十五本もの橋を数えた。



≪3≫

          富 松 橋 袂


   川辺据ゑられ 道居たる

   夜泣きの石ぞ 思ひ侘ぶ

   富松あゆむ歩 去り得ぬ気

   せめて供養を 懇ろに


         かはへすゑられ みちゐたる
         よなきのいしそ おもひわふ
         とまつあゆむほ さりえぬけ
         せめてくやうを ねんころに    〔平成二十一年五月五日詠〕


【 第三景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市塚口町・富松橋にて〉

 庄下川の上流、東富松川に架かる富松橋のたもとに、大きな石が居座っている。以前に通りかかった時も供養の花が丁寧に立てられているのを見かけ、地蔵様でもないし何のお墓だろう、と思ったことがある。その疑問は解けた。

〔 閑静な住宅街の中にある富松橋の東側。そこには「夜泣き石」と呼ばれる大きな石があります。昔、大水で上流から流され、夜になると「元の場所に帰りたい」と泣いていたため、地元の人が川から引き上げ供養したところ、泣きやんだと伝えられています。現在も、お花が供えられ大切に祭られています。……〕

 市の広報課が出している「市報あまがさき」平成二十一年三月号に、上の記事を見つけた。
 道に迷った幼子のように、夜になると泣いたという、伝説の夜泣き石。昔は当然街灯もなく、狐や狸が化けて出そうな暗闇が広がっていたことだろう。中村草田男の句「春の闇幼きおそれふと復る」を思い出す。真っ暗で、底知れず不安で、しかしどこか艶かしく和やかな闇。今まで少しも知らなかったが、地元・尼崎にもこんな日本昔ばなし≠フような言い伝えが残っていたとは面白い。大きなその石に人情味を感じ、しばし自転車を停め、しみじみと眺めた。

 ちなみに、地名や川の名の「富松」は「とまつ」と読むが、なぜかこの橋の名前だけは違うらしい。欄干の石標には「とみまつばし」と刻まれている。



≪4≫

          生 嶋 橋 辺


   庄下川沿ひ 歩む程

   艶に桜 瀬へも舞ふ

   織り成す色絵 愛でゐるを

   我訪ね来ぬ この道よ


         しやうけかはそひ あゆむほと
         えんにさくら せへもまふ
         おりなすいろゑ めてゐるを
         われたつねきぬ このみちよ    〔平成二十一年二月三日詠〕


【 第四景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市南塚口町・庄下川遊歩道にて〉

 庄下川沿いの、X橋から新庄下橋までの間は、ちょっとしたお花見スポットになっている。道路から川の傍まで石段を降りてゆくと、流れのすぐ脇に遊歩道が設けてあって、春になると、花を見上げながらの通り抜けが楽しめる。対岸の栗山町側も良いが、花の時季は、私は南塚口町側を行くのが好きだ。特に、上生嶋橋辺りの眺めは見事なもので、これが騒がしい町なかの空間かと思えるほど、ゆったりと落ち着いた気分にしてくれる。

 さて、この歌を詠んだのはまだ二月の初め。桜の咲いていようはずもないが、「咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ」(『徒然草』第百三十七段)と兼好法師も言っている。時季外れに花を想うのも、「なほあはれに情深し」というものだろう。
 春のうららの庄下川――と洒落込んで、一首詠んだ次第である。

 しかし、本当はそんな暢気な沙汰ではなかった。この日は寒けのする身で寒風を切りながら、自転車を飛ばして病院へ行った後、すぐに蒲団をかぶって寝ていたのだ。背筋や手足の筋肉が痛く、指先が冷え、歯ががちがち震えた。身体が少し温もってきたら、だいぶ気持ちが楽になり、春の夢でも見たいと思った。
 ……今日が節分、明日が立春。猪名川や淀川へも早く土筆採りに行きたいものだ……。

 夕方になると、何やら空腹を感じてもぞもぞ起き出し、母と一緒に季節を祝う。ちょうど戴き物の巻き寿司を、丸かぶりしてほっと一息。一本食べ尽くすと風邪を忘れ、景気良くもう一本かぶりついた。この年(平成二十一年)の恵方、東北東を向きながら。



≪5≫

          水 路 安 全


   尾浜ぞ江なる 大昔

   灯台設置 喜べり

   灯に照らされ来 あの船も

   安げ湾行く 目笑み居ぬ


         をはまそえなる おほむかし
         とうたいせつち よろこへり
         ひにてらされき あのふねも
         やすけわんゆく めゑみゐぬ    〔平成二十一年五月二日詠〕


【 第五景 】〜創作メモ〜 〈写真は写真は兵庫県尼崎市尾浜町・竹の下公園にて〉

 庄下川と昆陽川が合流する地点、尼崎のヘソとも言うべき町のど真ん中に、ミニ灯台がある。灯台の前の説明板には「この灯台上部は、長い間、海をとおる船の安全のため、実際に大阪湾を照らし続けていたものであります」とある。ここ尾浜町から海まではかなりの距離があり、なんでこんな町なかに灯台が……、と不思議がられる場所である。

 説明を読むと、縄文時代、尼崎市はほとんどの地域が海であったこと、河川により土砂が堆積され、弥生時代になって陸地が広がっていったこと、「尾浜」がその名の通り、昔は大阪湾に面した浜であったことなどが、金属のプレートに記されている。

 実際、尼崎には海辺を思わせる地名が多い。「浜」「潮江」「難波」「長洲」「琴浦」「汐町」等々、昔はみな海に面していたのだろう。太古のロマンに想いを馳せつつ川面を見つめていると、なんだか自分が神話の世界にいるような気がしてきた。ごく近場の、日頃はあまり顧みない場所に、こうした歴史の足跡を見つけるのはなかなか楽しいものだ。

 X橋から、高松橋、東川端橋、上生嶋橋、生嶋橋、新庄下橋、錦橋、新橋と来て、今、尾浜大橋。
 車輪に乗せての気ままな旅≠ヘ、このあとさらに下流へ、名月橋、新名月橋、三浜橋、難波橋、波洲橋、鳥洲歩道橋、鳥洲橋、玉江橋、庄下橋、開明橋、庄下川橋、戎橋、東へ折れて琴城橋、築地城内橋、大黒橋、御茶屋橋、そして松島排水機場へと続いてゆく。それでもまだ海は見えない。

「現在もカモメなど水鳥が飛来する水辺を有する街」と述べられている尾浜だが、大阪湾は遠い。



≪6≫

          八 幡 神 社


   音冴え鳥鳴く 声もする

   河川に沿ふ地 我歩む

   名月美姫の 墓標建て

   御宮ら宜し 尾浜居ぬ


         ねさえとりなく こゑもする
         かせんにそふち われあゆむ
         めいけつひきの ほへうたて
         おみやらよろし をはまゐぬ    〔平成年二十一月五日六詠〕


【 第六景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市尾浜町・尾浜八幡神社にて〉

 ミニ灯台より少し下流、新名月橋西詰の尾浜八幡神社に「名月姫遺蹟」がある。尼崎には名月姫伝説というのがあり、境内片隅の石塔「尾浜宝篋印塔(おはまほうきょういんとう)」が名月姫の墓と伝えられているそうだ。姫の伝説については、神社横の名月姫公園入口の説明板に詳しく述べられている。

 それによると、平安末期、今の尾浜町に三松刑部国春という豪族が住んでいて、彼は四十歳になっても子どもに恵まれなかった。京都・鞍馬山にこもって祈り続けたところ、久安二年(一一四六)八月十五日、玉のような女の子を授かった。この日がちょうど中秋の名月であったため、子どもは名月姫と名付けられ、成長するにつれ、その美しさは光り輝くばかりであったという。

 姫は十四歳の春、大阪能勢の豪族・蔵人家包(一説に「実包」)に略奪されてしまう。父国春は悲しみのあまり出家、諸国行脚しているうち、平清盛に捕らえられ、港を築くための人柱にされることとなった。ある夜、大日如来が姫の夢枕に立ち、危急を告げる。姫は現地に急ぎ、涙、涙で嘆願すると、清盛の家臣がそのけなげさに打たれて自ら人柱の身代わりとなり、姫は父とともに帰郷、大日如来を祀る寺を建て、平和に暮らしたという。

 月と姫の取合せがなんとなくかぐや姫≠思わせる話だが、あの平清盛まで登場するとは驚いた。

 ちなみに、尾浜に本店を持つ和菓子の彩花苑では、「名月姫」という銘菓が売られているらしい。地元の逸品、残念ながら私はまだ味わったことがない――。



≪7≫

          家 庭 之 火


   瓦斯発祥の 地へ来たる

   我笑むなり 其処に居て

   夢を灯らせ 愛広げ

   温み覚えん 良さ学ぶ


         かすはつしやうの ちへきたる
         われゑむなり そこへゐて
         ゆめをともらせ あいひろけ
         ぬくみおほえん よさまねふ    〔平成二十一年五月九日詠〕


【 第七景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市東難波町・大阪ガス尼崎事業所前にて〉

 庄下川右岸、鳥洲橋と玉江橋との中間の道を少し西へ行くと、「尼崎ガス発祥の地」がある。といっても大阪ガス尼崎事業所のコンクリート塀に、それを示す説明板が貼り付けてあるだけなのだが、燃料としてのガスがここから広まって行ったのかと思うと感慨深いものがある(説明板には、明治四十五年五月に尼崎瓦斯株式会社が創立したこと、昭和二十年四月に大阪ガスに合併したこと、そして現在に至るまで、阪神間のガスの供給拠点として重要な役割を果たしてきたことなどが記されている)。

 やはり台所にはガスの火が欲しい。一時はオール電化の時代がどうとか言われたが、とにかく調理には炎を用いるのが一番である。我が家は都市ガスではなくプロパンだが、あのガスの青い火を見ると、ほっと心が安らぎ、幼い頃への郷愁さえ感じる。

 さて、ガスに限らず、全国各地にある様々な「発祥の地」、そこには、発現当時のパワーと情熱が満ち満ちているような気がする。

 新しい物を生み出すためには、何よりもまず「誠意」が大切であると、つくづくそう思った。「誠意」とは、どれだけ真心をもって物事に取り組んでいるかという、日頃の努力と愛情である。たとえ1oでもいい、自ら進んで行動し、前進し、今日すべきことを決して明日へ先送りしない、積極的意気込みのことである。
 怠惰や弱気が起きそうな時は、いつもこのことを思い出している。限りある今を精一杯生きること。決して逃げないこと。常にそう心掛けていれば、適切な時機に素晴らしいひらめき≠ェ授かるに違いない。



≪8≫

          在 南 城 内


   平和願ふ 城址に

   子の夢育てむ 幼稚園

   櫻井御宮 花舞ひぬ

   季節好げ居り 惚れもする


         へいわねかふ しろあとに
         このゆめそたてむ えうちゑん
         さくらゐおみや はなまひぬ
         きせつよけをり ほれもする    〔平成二十一年五月七日詠〕


【 第八景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市南城内・開明橋袂にて〉

 庄下川が阪神電鉄尼崎駅の高架をくぐりぬけると、そこはもう御城下の風情。庄下橋のすぐ前には尼崎城址公園があり、市立中央図書館の脇に復元された城壁が続く。

 開明橋のたもとには、桜井信定公ほか歴代の尼崎城主を御祭神とする、桜井神社がある。細長い境内には「尼崎市発祥ノ地 尼崎城趾」碑、幕末の尼崎藩主桜井忠興が結成した博愛社(日本赤十字社の前身)の記念碑、博愛幼稚園(尼崎で最初の幼稚園)開園時に安置された博愛地蔵などが建っている。

 説明板によると、西南戦争(一八七七年)の時、藩主忠興は私財をもって医師、看護夫を現地に派遣し、敵、味方の区別無く負傷兵の手当てをさせたという。そしてその「博愛」の名を受け継ぎ、市内の幼児教育のさきがけとなった幼稚園がある。尼崎とは、そうした愛に満ち溢れた町なんだなぁと思い、改めて深く感じ入った。

 さて、私がこの歌を詠んだのは五月だが、神社名の「桜」という字に目が留まると、やはり葉桜ではなくて満開の花をイメージする。それで、「花舞ひぬ」「季節好げ」という表現になった。

 一面真っ白に咲く桜の木に雪の女王≠ニいう名前をつけて、
 「もちろん、いつもあんなに花をつけてるわけじゃないけれど、でも咲いていると想像できるでしょう?」
 と言った、赤毛のアンの言葉をふと思い出す。
 その一方では、「桜井」の名に引かれ、なんとなく唱歌「青葉茂れる桜井の……」を思い出していた。

 名前が与える印象は、やはり大きいものだと知る。



≪9≫

          尼 崎 城 下


   我も寺町 訪ね行く

   目据ゑ見 寺院実に多き

   江戸の風情や 薫る花

   夢想遊びぬ 歓べり


         われもてらまち たつねゆく
         めすゑみしゐん けにおほき
         えとのふせいや かをるはな
         むさうあそひぬ よろこへり    〔平成二十一年五月十四日詠〕


【 第九景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市開明町・本興寺前にて〉

 阪神電鉄尼崎駅の南西に、寺町がある。
 案内板によると、元和三年(一六一七)に大名戸田氏鉄が尼崎城の築城にとりかかり、城下町を建設する際、散在していた寺院を城の西に集めて寺町をつくった、とある。

 寺町の区画は当初からほとんど変化がないらしい。約三九ヘクタールの区域に、本興寺、全昌寺、善通寺、廣徳寺、常楽寺、甘露寺、法園寺、大覚寺、長遠寺、如来院、専念寺、以上十一寺院が集中している(厳密に言うと、駅前に近い全昌寺と本興寺は開明町に属する)。石版を敷いた門前の道を行くと、なんとなく江戸時代の風情が感じられる。

 残された文化財も多く、本興寺の木造日隆上人坐像・開山堂・三光堂・方丈・太刀数珠丸と、長遠寺の本堂・多宝堂、以上七件が国の重要文化財に指定されているという。
 また、廣徳寺には「太閤記伝 秀吉由緒寺」の表示があり、天正十年(一五八二)豊臣秀吉が明智光秀を追討するため京都山崎へ向かう途中、尼崎に着き、付近に禅寺を求めて休憩した話と、伏兵を避けるため逃げ込んだ話とが伝わっているらしい。

 さて、私は七福神が大好きなのだが、この寺町にも「尼崎寺町七福神めぐり」があるという。本興寺(大黒天)、長遠寺(毘沙門天)、大覚寺(弁才天)、常楽寺(寿老人)、法園寺(布袋尊)の五寺院に加え、神田中通にある尼崎戎神社(恵比須神)、国道四三号線沿いの西元町にある貴布禰神社(福禄寿)、以上七寺社を案内したポスターが、大覚寺の掲示板に貼ってあるのを見、その福々しさにしばし感じ入った。



≪10≫

          中 国 街 道


   大黒橋の 碑を見ゐて

   大路なぞり 褪せぬ夢

   江戸へ向かふ 行列ら

   遠路練る様も 良げに和す


         たいこくはしの ひをみゐて
         おほちなそり あせぬゆめ
         えとへむかふ きやうれつら
         ゑんろねるさまも よけにわす   〔平成二十一年五月七日詠〕


【 第十景 】〜創作メモ〜 〈写真は兵庫県尼崎市東本町・大黒橋跡にて〉

 尼崎市南城内の南東の角、現在大黒橋が架かっている所から、庄下川をほんの少し下流へ行くと、東へ折れる川の左岸に「中国街道大黒橋跡」記念碑がある。その石碑の前の道筋が中国街道で、八代将軍吉宗の頃には、象も通ったことがあるそうだ。

 碑文によると、中国の貿易商が、牡牝二頭の象を吉宗に献上しようとした。残念ながら、牝象は長崎上陸後に急死。牡一頭が江戸まで三五四里の道程を道中した。享保十四年(一七二九)三月十三日、長崎を出立。四月十九日、尼崎の城下に到着し一泊。翌日、尼崎藩の庄屋、村役人等が行列に参加、藩内を無事通過させるため、象に対して様々な気配りがなされた。当日は象が驚かないよう、牛馬や犬猫は目につかない所につなぐ、寺社の鐘、太鼓、鍛冶屋、大工等の音をたてない、見物人は大声を出さない等の心得書が代官の名で出されたという。

 万一象が死んだら切腹ものと、大騒動を巻き起こしつつも、行列は五月二十五日、無事江戸に到着した。

 その後、問題の象はどうなったのだろう――。
 気になったので調べてみると、和田信子著『大江戸めぐり 御府内八十八ヶ所』第十二番宝仙寺の項に、次の記述を見つけた。

〔寺宝に象骨があるが、(中略)日本に渡来した象を、飼い主の八代将軍吉宗に代わって、中野の農民・源助が最後まで飼育にあたった。死後は宝仙寺で供養し、遺骨を保管してきたのである。……〕

 それを知って私は、なんだか不思議にほっとした。



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