1頁目   [新いろは歌の広場]

     五劫の擦り切れ

                               中村菜花群


《 1 》


 晴嵐の松を眺めつつ、なぎさの道を行く。膳所城跡公園に入り、枝葉が黒く空を覆う雑木林の果てに、白く輝く湖面が開けた。水の向こうに見えるのが、近江大橋。清み渡った空には、むくむくと入道雲が盛り上がる。その青と白の対比が、湖にも照り映える……。
 ――とうとうここまでやって来た。
 家を出たのは、午前二時四十五分。暗がりの道路をひたすら東へと進む。藻川を越え、猪名川を越え、天竺川を越えて吹田を抜け、安威川の新京阪橋へ出る。今度は安威川沿いに摂津へ入り、モノレールの高架に沿って淀川に至る。
 兵庫県尼崎市の自宅から淀川の鳥飼大橋まで、約一時間半。まだまだ序の口だ。ここからが本当のスタートなのだ。

 淀川の水源を目指す旅――。このちょっとした冒険に胸が躍る。
 彼の趣味はサイクリング。といっても、スウェットスーツに身を包み、ヘルメットをかぶり、ゴーグルを着け、変速ギア付きのロードバイクで風のように滑走する――そういう本格的なものではない。
 前籠のあるごく普通の自転車、いわゆるママチャリ≠ノひょいとまたがり、ちょっとそこまで行ってくるよ……という感覚でふらりと遠乗りに出掛ける。だいいち足元はサンダル履きだ。普段着のまま、近所のスーパーへ買い物にでも行くような……。この気軽さがいい。なんという自由さ! そして、開放感!
 疲れたら帰ればいい、嫌になったら引き返せばいい。気負わないから延々走れる。淀川右岸の土手の道を、悠々と上流へ向かう。大阪から京都、滋賀へ。琵琶湖から流れ出た「瀬田川」は、京都府へ入って「宇治川」となり、木津川・桂川の二川と合流、「淀川」と名を変えて大阪府に入り、やがて大阪湾へ注ぐ。それを逆に進むのだ。

 人に話すと、たいていは笑われる。まあ、好意的失笑というやつだ。
「えっ、琵琶湖まで自転車で行くの?」
「はい。ちょっと遠いですけど」
「ちょっとどころじゃないでしょう……。行って、どうするんですか?」
「べつに何もしないですよ」
「じゃあ、どうしてそんな所まで?」
「自力で行くことに意義があるんです。ほら、登山と同じで」
「……?」
「山登りだって、頂上へ行って何かをするわけじゃないでしょう? 山頂からの眺めも良いけど、むしろ、そこへ至る過程が楽しいわけですよ。途中の景色が、みんな輝いて見えますよ!」
「でも、行って帰って来るだけなんて、私には無理かな……お尻、痛くなっちゃうでしょ」
 そんな会話が予想される。
 しかし彼はただ、好きでやっているだけなのだ。

 七十キロは走っただろう。簡単な食事休憩を含め、約八時間の道程。午前十時三十七分、ついに琵琶湖に到着! 八月の日射に身を曝し、心地好い疲れに酔いしれる。達成感と充実感。湖よ、ありがとう! そう叫びたくなる。
 木陰には、松尾芭蕉の句碑があった。

   湖や暑さを惜しむ雲の峰

 この句は涼風立つ夏の夕景を詠んだものらしいが……、今の彼にとっては、むしろ真昼の太陽がぎらつく晩夏の景、という印象が強い。
 この夏最後の思い出にと、はるばる自転車を飛ばして来た。その行き着く先に、日本一の湖と、天へたちのぼる入道雲。灼けつく陽射しを見納めに、全身で季節を感じよう……!
 胸の奥へと浸み渡る静寂。どこか切なげな、眩しさの記憶。まるで幼い頃に戻ったかのような、新鮮で、かけがえのない時間……。
 彼はこの感動を、歌に詠むことにした。

 手帳を開き、まず、次のような文字列を書く。

    あいうえお
    かきくけこ
    さしすせそ
    たちつてと
    なにぬねの
    はひふへほ
    まみむめも
    や ゆ よ
    らりるれろ
    わゐゑをん

 これは五十音図を基にした仮名図だ。縦長のメモ帳に合うよう「あいうえお……」を五字ずつ横書きし、縦長の図を作る。ア行と重複するヤ行の「い」「え」、ワ行の「う」は抜いてある。ワ行については旧仮名の「ゐ」「ゑ」を残し、「う」の代わりに最後に「ん」を加えて五字とし、全体として十行五列の長方形に揃える。
 これで準備が出来た。さて、ここからが問題だ。四十八種類の仮名を、どう使うか――。
 彼は考える。
 歌の題材として「琵琶湖」の語は外せない。地域性・固有性を出すためにも、この三字は絶対に動かせない。琵琶湖、旧仮名遣いで「びはこ」。
 そこで、真っ先に「ひ」「は」「こ」の三字を塗りつぶす。

    あいうえお
    かきくけ●
    さしすせそ
    たちつてと
    なにぬねの
    ●●ふへほ
    まみむめも
    や ゆ よ
    らりるれろ
    わゐゑをん

 次に考えたのが、湖畔の句碑だ。芭蕉の句も読み込もう。「暑さを惜しむ雲の峰」の部分、「あつさ」「をしむ」「くものみね」の語句が、そのまま使える!
 それらをどう整えるかは別として、ともかくも「あ」「つ」「さ」、「を」「し」「む」、「く」「も」「の」「み」「ね」の十一字を塗りつぶす。

    ●いうえお
    かき●け●
    ●●すせそ
    たち●てと
    なにぬ●●
    ●●ふへほ
    ま●●め●
    や ゆ よ
    らりるれろ
    わゐゑ●ん

 とりあえず、こんな感じだ。
 さて、季節感も考えよう。「雲の峰」なら夏だが、今は八月も終わりに近い。暦の上ではすでに秋だ。残った仮名を眺めつつ、「風立ちぬ」という言葉が浮かぶ。そうして、「か」「せ」「た」「ち」「ぬ」の五字を消す。
 順調だ。
 そうだ、心情表現を入れよう。雄大な景色に触れ、心に余裕が感じられ……。
 ふと、「余裕」の仮名遣いが気になった。同じ「ユウ」でも漢字によって歴史的仮名遣いが異なる。例えば、「友」は「いう」、「揖」は「いふ」、「勇」は「ゆう」、「夕」は「ゆふ」というように。
 歴史的仮名遣いにこだわるのは、単純にそのほうが詠み易いからだ。現代仮名遣いでは、どうしても同じ仮名が重なる率が非常に高くなってしまう。例えば、「おおおじが、きょう、きょうへはしる(大伯父が、今日、京へ走る)」という語句を考えた場合、現代仮名遣いでは仮名の重複が絶対に避けられない。しかし、歴史的仮名遣いなら「おほをぢが、けふ、きやうへはしる」と、一字も重ならないのだ!
 辞書で調べてみると、余裕の「裕」は現代仮名遣いと同じ「ゆう」でよかったので、それに従い「よ」「ゆ」「う」の三字を消す。
 加えて、夢やロマンだ。冒険には夢とロマンが欲しい。それをそのまま取り入れよう。
「ろ」の字の使い途にはいつも困る。最後まで残すと面倒なので、「ロマン(浪漫)」の語で消化する。「夢」のほうは、すでに「ゆ」の字を「裕」に使用していたので、取りやめにした。

    ●い●えお
    ●き●け●
    ●●す●そ
    ●●●てと
    なに●●●
    ●●ふへほ
    ●●●め●
    や ● ●
    らりるれ●
    わゐゑ●●

 ここで、はたと思案する。用途の少ない仮名がまだまだ残っている。
 経験上、扱いにくい仮名を十種挙げるとしたら、ア行の「え」「お」、サ行の「せ」、ナ行の「ぬ」「ね」、ハ行の「ほ」、ラ行の「ろ」、ワ行の「わ」「ゐ」「ゑ」だ。そして今、このうちの六字が未使用だ。「え、お、ほ、わ、ゐ、ゑ」を消化すべく、仮名図をもう一度見直した。
 いつも使う手だが、「わ」は「われ(我)」、「ゑ」は動詞の「ゑむ(笑む)」に用いるのが無難だろう。「我笑めり」に決め、「わ」「れ」「ゑ」「め」「り」の五字を消す。
 更なる常套手段が、「え」「お」「ほ」の組合せで「おぼえ(覚え)」、「ゐ」を「ゐる(居る)」とするやり方だ。これもそのまま「覚えゐる(=感じている、の意)」として乗り切った。ロマンや余裕を感じている、と表現すれば意味的にも問題はない。
 もう、山場は越えたも同然だ。
 まだ塗りつぶされていない文字のうち、「け」「ふ」の二字を「今日(けふ)」とし、「へ」「き」の二字を「ひはこ」に添えて「ひはこへき(琵琶湖へ来)」とし、これまで作った語句を七五調に並べてみた。

  けふかせたちぬ ひはこへき
  あつさをしむ○ くものみね
  ろまんよゆう○ おほえゐる
  ○○○○○○○ われゑめり

    今日風立ちぬ 琵琶湖へ来
    暑さ惜しむ○ 雲の峰
    浪漫余裕○ 覚えゐる
    ○○○○○○○ 我笑めり

 悪くはない。残る九字の空白を埋め、微修正を加えれば完成だ。
 四句七五調に揃えると、俄然和歌らしくなる。下手な表現も、それなりに見映えがする。枠にはめられることが嫌いな彼も、詩歌だけは別かもしれない。
 さて、仮名図の塗りつぶし作業は終盤を迎えた。

    ●い●●●
    ●●●●●
    ●●す●そ
    ●●●てと
    なに●●●
    ●●●●●
    ●●●●●
    や ● ●
    ら●●●●
    ●●●●●

 残るは「い、す、そ、て、と、な、に、や、ら」の九字。じっと見つめるうちに「なにやらそとていす(何やら外で椅子)」という、意味不明の語句を思い付き、苦笑した。没だ。
「そ(=ぞ)」「て」「と」「に」「や」などは、助詞としてどこへでも使える。ポイントは「す」の字だろう。そのまま動詞の「す(=する)」として用いる手もある。打消しの「ず」もある。さてどうするか。
 他の仮名ともいろいろ組み合わせてみる。
「なす(成す)」は良いかもしれない。「すな(砂)」も、風景に合いそうだ。
「なす(茄子)」? だめだ。「すい(酸い)」、没だ。「すい(水)」で熟語を作れたらいいが……。「ないす(ナイス!)」、なんで英語なんだ。
 彼の意志に反し、出まかせの候補が次々に浮かんでくる。
 だめだ、だめだ。原点に立ち返ろう。
 秋風の立つ琵琶湖へやって来て、暑さを惜しむように雲の峰が照り映える、広々とした風景を目の当りにし、心に浪漫と余裕を感じ、微笑む自分……。そのイメージで言葉を探す。

 い、す、そ、て、と、な、に、や、ら……。

 何度も何度も仮名を見つめる。
 さんざん頭をひねった末、ついに「安らいで」の語が閃いた。
 これで、いける!
 駄目押しに「や」「す」「ら」「い」「て」の五字を塗りつぶし、作りかけた歌の空白を埋めてみる。

    ●●●●●
    ●●●●●
    ●●●●そ
    ●●●●と
    なに●●●
    ●●●●●
    ●●●●●
    ● ● ●
    ●●●●●
    ●●●●●

  けふかせたちぬ ひはこへき
  あつさをしむ○ くものみね
  ろまんよゆう○ おほえゐる
  やすらいて○○ われゑめり

    今日風立ちぬ 琵琶湖へ来
    暑さ惜しむ○ 雲の峰
    浪漫余裕○ 覚えゐる
    安らいで○○ 我笑めり

 いよいよ大詰めだ。最後の四字「そ」「と」「な」「に」をどこに埋め込むか!
「な」「そ」は「なぞ」(=「など」の意)にしようか。「と」や「に」は接続助詞になる。
 語句をいくつか並べ替え、試行錯誤し、彼は最終的に、次のように歌を詠み終えた。

 風なぞ立ちぬ 琵琶湖へ来
 暑さ惜しむに 雲の峰
 浪漫と余裕 覚えゐる
 我安らいで 今日笑めり

   かせなそたちぬ ひはこへき
   あつさをしむに くものみね
   ろまんとよゆう おほえゐる
   われやすらいて けふゑめり

 ジグソーパズルのように、全ての仮名がピタッと収まった時の感動は、何度味わっても好いものだ。単なる自己満足でいい。この心地好い脳味噌の運動。達成感と充実感――。
 紙と鉛筆さえあれば(辞書も欲しいが)、いつでもどこでも行える。琴線に触れるものを得たら、蝶が花から花へと舞うように、また気の向くままにペダルを踏む。日常のすぐ隣に在りながら、まるで雲の上にいる気分……。
 サイクリングと歌作り――二つの愉悦が一つに溶け合い、この上ない陶酔境を味わった。


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