前月へ 翌月へ HOME

出来立て!今日の一首

〜平成三十年三月分 の 新いろは歌 中村菜花群〜

2018/ 3/1 3/2 3/3 3/4 3/5 3/6 3/7 3/8 3/9 3/10 3/11 3/12 3/13 3/14 3/15 3/16 3/17 3/18 3/19 3/20 3/21 3/22 3/23 3/24 3/25 3/26 3/27 3/28 3/29 3/30 3/31


平成30年3月31日(土)

        終 日 春 色


 桜花よ 寺の塀や地に

 影を落とせり 陽眠たし

 咲き誇れる 夢も得つ

 浪漫染む花 見据ゑゐぬ


       あうくわよてらの へいやちに
       かけをおとせり ひねふたし
       さきほこれる ゆめもえつ
       ろまんそむはな みすゑゐぬ


 今年は平年より八日早く、三月二十日に大阪で桜の開花が発表されました。近所のお寺でも彼岸の仕舞い頃からちらほらと蕾が開き始め、その横を通るたびに一首詠まねばと思っていたのです。
 しかし春といえば桜≠ニいうのでは、あまりにも一般的すぎて、かえって詠みにくいものです。自作を振り返ってみたところ、この数年間で実際春に桜の花を詠んだ例は、辛うじて次の一首ぐらいでした。

   花に胡蝶 居し好さを    はなにこてふ ゐしよさを
   桜花全景 絵と見たる    あうくわせんけい ゑとみたる
   夢の気持ちす 止まぬ悦   ゆめのきもちす やまぬえつ
   胸へ大空 広がれり     むねへおほそら ひろかれり
                   〔平成二十六年四月三日詠〕

 今回急に創作意欲が湧いたのは、歌にも詠んだ通り、お寺の塀に花の影が模様を作っているのを見たからです。陽光の下、白く映える満開の花とは対照的な黒い影絵の美しさに、しばし目を奪われました。桜そのものではなく影のほうに注意が行ったことが、自分自身、ちょっと新鮮に感じたのです。
 仮名の使い道に困って「夢」「浪漫」という常套手段に逃げたので、歌の後半は凡作に陥ってしまいましたが、前半の発想は良かったと思います。



平成30年3月30日(金)

        組 立 玩 具


 ブロツク遊び 知恵絞り

 前に夢成す 我挑む

 屋根を重ぬる この御堂

 汽船らも居て 見映え良げ


       ふろつくあそひ ちゑしほり
       まへにゆめなす われいとむ
       やねをかさぬる このおたう
       きせんらもゐて みはえよけ


 百円ショップで売っているプチブロック、結構楽しいもんですね! 子供に見せるお手本として作っているうちに、自分のほうが夢中になってしまいました。
 最初は単純な階段とか、花の形に組み合わせるだけでしたが、だんだん創作欲が出て「そうだ、あれも作ってみよう」「こうすればもっと立体的に見える」などと、夢は膨らむ一方です。ピースの数が少ないので大したものは作れませんが、限られた中で知恵を絞り、工夫を凝らすのが楽しくなって来ました。
 ああ、これって新いろは歌≠ニ同じだなぁ……。
 ふと、そう感じました。四十八しかない仮名を組み合わせ、無限の世界を表現する新いろは歌。一方、小さなピースを組み合わせて様々な物を形作るブロック遊び。ハマるはずです。
 ブロックは、組み方によって直線≠どのように曲線≠ノ見せるかがポイントですね。昨晩はまず「二重の塔」を作り(上の画像)、それを解体して今度は「汽船」に作り変えました(右の画像)。興に任せて思い付くまま組み立ててゆくので、もはや再現不可能です。
 塔にせよ船にせよ、ほんの一時の面白み。三日天下ならぬ、わずか三十分天下≠ナした。



平成30年3月29日(木)

        蝋 燭 二 本


 甘味ら想ふ 誕生の

 ケエキぞ 二歳慶べり

 点く火少と揺れ 和を成せる

 笑顔で跳ね 娘居ぬ


       あまみらおもふ たんしやうの
       けえきそにさい よろこへり
       つくひちとゆれ わをなせる
       ゑかほてはね むすめゐぬ


 武庫元町にあるケーキ店「ショコラクラブ」へ、子供のバースデーケーキを受け取りに行って来ました。
 このお店は注文に応じてケーキの表面に、好きなキャラクターや似顔絵を描いてくれる点が嬉しいですね。写真を持って行けば絵柄の相談にも柔軟に対応してくれるので、たいへんありがたいです。以前は演歌歌手の山内惠介の顔を描いてもらったこともありました(右の画像です!)。
 そこで、今回はアンパンマン≠ナす! なんといっても子供はアンパンマンが大好きですからねぇ。アンパンマンなら単純な顔なので、わりと描き易いんじゃないかな(笑)。でも、ケーキの上に描くというのは結構難しいでしょう……。
 目にも楽しいこのケーキ、子供も喜んでくれて、親子共々美味しくいただきました。絵が綺麗なので、どう切り分けていいか、ちょっと迷ってしまいますよ……。
 ところで「ケーキ」という外来語には、何か良い当て字はないのでしょうか?
 小学館『日本国語大辞典』を見ると、坪内逍遥が「菓子」と書いて「ケイキ」と読ませた例が載っていますが、「菓子」では意味の幅が広すぎると思います。季語でクリスマスケーキは「聖菓」と言い換えるので、十二月なら断然「聖菓」なんですけどねぇ!
 もし自分で「ケーキ」の当て字を作るとしたら、「ケイ」の音を持つ字に「菓」の字を添えたいですね。めでたい菓子で「慶菓」、見映えの良さを重視するなら「景菓」、ありがたさを想うなら「恵菓」、お茶のお供で「憩菓」とか。誕生日のローソクを立てる意味で「螢菓」というのも考えましたが、食べ物に「虫」が入るのは良くないかな? まぁローソク(蝋燭)にも虫の字が入ってますし……。



平成30年3月28日(水)

        美 栗 太 郎


 笑みを添へゐ 天女が来

 忘れ得ぬ夢 舞ふ衣

 幸せの種 びつ栗や

 大いなる幸 受け取らむ


       ゑみをそへゐ てんによかき
       わすれえぬゆめ まふころも
       しあはせのたね ひつくりや
       おほいなるさち うけとらむ


 姫路城へ行って来たと言って、妻の姉からお土産をもらいました。
「銘菓 びっ栗太郎」という、大きな栗の形をしたお饅頭で、白餡にすりつぶした栗の実が混ぜてあるようです。包装紙には楽しい絵と、「びっ栗」の由来ともいうべき短い昔話が出ていました。全文を引きます。

  むかしむかしある村に太郎という名の
  たいそう親思いの若者がいた
  母の好物の栗をひろっていると
  空から美しい天女があらわれて
  それはそれは大きな栗をくれた
  太郎はたいへん驚いて
  『何んという栗ですか』と聞いた
  天女はにっこり笑って
  『びっ栗ですよ』

 お饅頭も昔話もなかなか味わい深かったので、一首詠んだ次第です。
 ところでこの「びっ栗太郎」、姫路名物かと思ったら(姫路市キャラクターしろまるひめ≠フシールも貼ってありました)、販売者が「(有)佐川製菓 SSK」、住所が「鳥取県東伯郡……」になっていました。とすれば、製造場所は鳥取県? つまり、鳥取名物ということ? その点もちょっとびっくり≠ナした。



平成30年3月27日(火)

        幼 時 陣 地


 崩れぬ様に また夢盛り

 砂場 青空 幸覚え

 喜び湧き 胸へ溶け

 自分の世界 笑みて居る


       くつれぬやうに またゆめもり
       すなはあをそら さちおほえ
       よろこひわき むねへとけ
       しふんのせかい ゑみてゐる


 昨日、公園の「砂場」で子供と遊んだ時に、頭の中では新いろは歌を考えていました。子供というのはすぐに「自分の世界」へ入って行けていいなぁ……と。それをテーマに一首詠んだ次第です。
 ところで、「砂」と聞いて最初に思い浮かんだ慣用句が「砂上の楼閣」でした。念のために『広辞苑(第六版)』を引くと《永続きしない物事、または、実現不可能な計画のたとえ》。
 次に浮かんだのが「砂を噛むよう」。意味は《味けないことや感興をそがれることの形容》。
 砂のイメージって、一般的にあまり良くないのかなぁと、初めはそう感じました。
 しかし、風景的なものとして捉えると「白砂青松」という美しい表現があります。他に「砂」の付く言葉を考えると、「砂時計」「砂日傘」「鳴き砂」「星砂」などは、なんとなくロマンチックで好いですね。
「砂時計」は大切な時間がどんどん過ぎてゆく≠るいは過ぎた時間は戻って来ない≠アとの象徴とも言えそうです。落ちる砂によって時間を視覚的に捉えられる点が、心情を刺激するのでしょう。
 夏の季語「砂日傘」は、実に情緒的ですね。外来語で「ビーチパラソル」と呼ぶと、華やかで賑やかなリゾートが目に浮かびますが、「砂日傘」という語には、どこかしっとりと落ち着いた印象があります。静かな浜辺、傘の陰で一人うたた寝をしていると、遠くから楽しげな声が微かに聞こえて来るような……。
 歳時記で見つけた砂日傘の句を一つ。

   留守を守るタオル一枚砂日傘   龍野 龍



平成30年3月26日(月)

        春 生 菓 子


 練れる甘味と 桜色

 美や夢成せり このお餅

 若葉塩漬け 良う添ふを

 好きて食べゐぬ 艶に笑む


       ねれるあまみと さくらいろ
       ひやゆめなせり このおもち
       わかはしほつけ ようそふを
       すきてたへゐぬ えんにゑむ


 まず、桜餅が関東と関西では異なるということを、今日初めて知りました。『広辞苑(第六版)』を見ると、
《小麦粉・白玉粉を練って薄く焼いた皮(紅白2種ある)に、餡を入れて、塩漬の桜の葉で包んだ菓子。……》
 と出ています。この「焼いた」というのが引っ掛かりました。さらに読んでゆくと、
《関西風は、蒸した道明寺粉を用いて作る。》
 とありました。あぁ、なるほど。「蒸した」と聞いてほっとしました。私は関西風の桜餅しか知りませんが、ちょっとクレープっぽいのが関東風なんですね。いずれにせよ、塩漬けの桜の葉で包むわけですね。
 さて、問題はその桜の葉です。
 餅と一緒に葉も食べますよねぇ? 葉は取り除いて餅だけ食べます? 私は断然葉を食べる派≠ナす。歯で葉をパリッと噛む感触、餡の甘味を引き立てる仄かな塩の風味、これこそが桜餅の醍醐味だと思うんですが……。以前から気になっていたのが、高浜虚子の次の一句です。

   三つ食へば葉三片や桜餅

 これって、餅だけ食べて葉を残すということでしょう? その葉、捨てるの?(笑)
 意地汚いことを言うようですが、もったいないなぁ、せっかくの葉が!
 ま、人それぞれ、食べ方は自由なんですけどね……。



平成30年3月25日(日)

        払 暁 雀 躍


 夢終へ起きよ 鳥雀ら

 朝日待つに 寝所抜けん

 若葉萌えたる 梢乗り

 猶威勢満ち 群れ揃ふ


       ゆめをへおきよ てうしやくら
       あさひまつに ねとぬけん
       わかはもえたる こすゑのり
       なほゐせいみち むれそろふ


       蝶 々
                野村秋足

   一 ちょうちょう ちょうちょう。
     菜の葉にとまれ。
     菜の葉に飽いたら、桜にとまれ。
     さくらの花の、さかゆる御代に、
     とまれよ 遊べ、遊べよ とまれ。

                稲垣千頴
   二 起きよ おきよ。
     ねぐらのすずめ。
     朝日の光の、さし来ぬさきに。
     ねぐらを出でて、こずえにとまり、
     遊べよ すずめ、歌えよ すずめ。

 講談社文庫『日本の唱歌(上) 明治篇』(金田一晴彦、安西愛子 編) から引用しました。
 誰もが知っている唱歌「蝶々」ですが、二番の歌詞については、一般的にはほとんど知られていません。インターネットでも検索したところ、さらに続きがあるようで、三番が「とんぼ」、四番が「つばめ」の歌詞(いずれも作詞者不明)だそうです。なんじゃ、そりゃぁぁぁぁぁ!
 だいたい、一番と二番の作詞者が違うというだけでも不思議なのに、一体どういうことなんでしょうね? そもそも「蝶々」の歌であるはずが、どうして次々と主役が変わるのか、まったく理由がわかりません。これはいわゆる連作≠ネのでしょうか? リレー作詞?
 講談社文庫の解説では、三番以降に関する記述も無く、ただ「二人の人が第一節と第二節とを作詞」とだけ述べられています。二番についてはたった一言「第二節の歌詞は劣る」と、ばっさりですね(失笑)。
 その問題の「第二節」を、新いろは歌のテーマとして取り上げた次第です。
 では、最後になぞなぞを一つ。
 太陽がギラギラ照りつける暑い日、そばにいた人に「まったく、暑くてたまりませんねぇ!」と話しかけたところ、その人は木陰のほうを指さして、鳥の名前を言いました。さて、何と言ったのでしょう……?
 答えはもちろん……「すずめ!」(笑)。



平成30年3月24日(土)

        御 負 豆 本


 ルウちやん餃子 ミニブツク

 忘れ得ぬ絵と 物語

 猶そこらへ 夢広げ

 招いて居む 幸せを


       るうちやんきよおさ みにふつく
       わすれえぬゑと ものかたり
       なほそこらへ ゆめひろけ
       まねいてゐむ しあはせを


 フジフーヅの「ルーちゃんぎょうざ」を小学生の時によく買ってもらい、母に焼いてもらって食べました。餃子ももちろん大好きでしたし、また、当時おまけとして封入されていたミニブック(4.5cm×3cm程の極小絵本)を読むのがとても楽しみだったのです。
ルーちゃん・らいぶらりい≠ニ銘打つそれらの本は、シリーズ第一期(昭和四十七年頃)に、

  @ カンカンとランラン   E 空と海の詩(うた)
  A 団地のなかの大きな森  F かがやくのはら
  B 地下室で見つけた窓   G ひかりの子どもたち
  C 少年のペンダント    H 子ねこのルルのいねむりうた(ぬりえつき)
  D 海にきえた少女     I これをよんでください(ペルネとルーちゃんのラブレター)

 シリーズ第二期(昭和四十八年頃)に、

  @ 霧の娘(イギリス)      E 石だたみに消えた少年(フランス)
  A 白い蝶(ドイツ)       F こうべの絵本
  B 人魚(デンマーク)      G 松坊主
  C 空いろのへび(スイス)    H くじら舟
  D チューリップの森(オランダ) I 詩

 以上、計二十冊発行されています。
 私はこれらメルヘンチックな詩や童話にかなり魅了され、子供なりに何度も読み味わいました。何十年も経て今読み返すと、新たな感動と懐かしさで胸がいっぱいになります。残念ながら、その当時に全冊揃えることが出来ず、一度も目にしていない作品もいくつかあります。なんだか見たくてたまらないので、もし可能なら復刻版≠刊行してほしいと切に望みますが、フジフーヅ本社にその資料は保管されているのでしょうか……?
 わがままな期待が膨らむ今日の一首≠ニなりました。



平成30年3月23日(金)

        春 本 番 前


 湧き起こる雲 威勢良し

 移ろふ空に 差す日見ゆ

 通り雨かな 山辺映え

 濡れの懸念を 断ちて笑む


       わきおこるくも ゐせいよし
       うつろふそらに さすひみゆ
       とほりあめかな やまへはえ
       ぬれのけねんを たちてゑむ


 昨日は一日どんよりとした曇り空でしたが、通り雨が過ぎると少しだけ晴れました。曇天の裂け目に青空が覗くと、それが川から海のようになって、様々な雲が流れて行きます。白雲、黒雲、灰色の雲。綿雲、薄雲、筋雲、渦巻く雲……。短時間に移り変わる空の様子は、なんともいえず見事≠ナした。
 この空は今、冬から春への季節の推移を駆け足でおさらい≠オているんだな……。いわばこれが、本格的な春を迎えるに当たっての、一種の肩慣らし≠ネんだな……。そんなふうにも感じました。
 私は雲を眺めるのが好きです。大きな川の土手の上とか、あたりが広く見渡せる場所へ行って、一日ぼーっと空を見上げていたり、雲に向かってどこまでも自転車を漕いで行ったり、たまにはそんな時間が過ごせたら……、と思います。

   雨雲 凍て雲 鰯雲 鱗雲 朧雲 笠雲
   雷雲 鯖雲 五月雨雲 棚雲 千切れ雲
   夏雲 入道雲 羊雲 夕雲 夕立雲 雪雲 ……

『広辞苑(第六版)』から適当に言葉を拾ってみましたが、こうして雲の名前を見ているだけでも、なかなか味わい深いですね。



平成30年3月22日(木)

        卓 球 観 戦


 風切らんやな 白い球

 テエブルに跳ぬ 打ち合へり

 胸空く技の 威を思ひ

 それ行けと声 誉めつ観よ


       かせきらんやな しろいたま
       てえふるにはぬ うちあへり
       むねすくわさの ゐをおもひ
       それゆけとこゑ ほめつみよ


 残念ながら、私はスポーツ観戦にあまり興味がありません。プロ野球とか、Jリーグとか、ほとんど観たことがないし、本当の楽しさをまるで知らないのです。しかし、なぜか卓球は面白いなぁと感じます。
 子供の時には、よくピンポン台で打ち合いをして遊びました。正式なルールは知らないけれど、とても楽しかったのを覚えています。そういえば、まだどこかにあったよなぁ、そう思って物置を探してみたところ、ラバーがひび割れて使い物にならなくなったラケットが一つと、ピンポン玉が出て来ました(上の画像)。もう何十年もほったらかしの、古びて汚れたラケットですが、今手にすると実に感慨深いですね。
 テレビで卓球選手権が放送されているのを、たまに観ることがあります。べつに熱心なファンではありませんが、観ていると大いに感動します。あの狭い台を前にして、必死で打ち合う緊迫感。右に左に揺さぶりをかけ、あの手この手の攻防戦。コートに打ち込まれた球が台から大きく逸れて飛んで行ってしまうのを、遠くからすくい上げるようにして打ち返し、その球が相手方の台の角に辛うじて当たった時などは、
「うぉぉぉぉぉっ!」
 と、観ているこちらまで拳を握りしめ、声を上げてしまいます。これで決まりかと思ったら、それをまた相手方が打ち返してくるんですよね! なんだかサーカスの曲芸でも観ている気分です。まさに、ハラハラドキドキものですね!
 その緊張を今日の一首≠ノ感じていただければ幸いです。



平成30年3月21日(水)

        此 岸 之 春


 彼岸頃をば 胸安き

 余裕増えゐて 我笑みぬ

 土筆炒めの 味盛らる

 仏様に お供へせり


       ひかんころをは むねやすき
       よゆうふえゐて われゑみぬ
       つくしいための あちもらる
       ほとけさまに おそなへせり


 暑さ寒さも彼岸までと言いますが、昨日の大阪は最高気温一〇・二度、最低気温八・五度だそうで、冬かと思う寒さでした。おまけに午後から天気が崩れ、一夜明けて今日も冷たい雨模様です。雨は午後にはひとまず上がり、日が差すこともありましたが、今度は強風に交じって雨粒がばらばら落ちてくる始末です。こんなに荒れた気候のお彼岸は、今までになかったなぁと感じました。
 それでもなんとか短時間のうちに、庭に生えた土筆を手早く四百本ほど採りました。油炒めにして醤油で味付けすると、最高に美味です。春の味覚として、毎年この時季には仏壇にもお供えしています。
 さて、歳時記で見つけた俳句を一つ。

   毎年よ彼岸の入に寒いのは   正岡子規

『講談社版 カラー図説 日本大歳時記 座右版』の解説を引きます。
《「もうお彼岸だというのに寒いね」というと、母堂が「毎年よ、彼岸の入に寒いのは」と答えた。子規はその言葉がそのまま俳句になっていることに気付いて、それを俳句とした。》
 そうかぁ、彼岸の入りに寒いのは、毎年なんですね……。
 しかし彼岸も中日で、この冷え込みと雨風ですからねぇ。今日のような春分の日≠ヘ、珍しいんじゃないのかな……?



平成30年3月20日(火)

        蛯 煎 浪 漫


 かつぱえびせん 手に受けゐ

 美味しさの夢 猶盛らる

 悦ぶ味ぞ 胸躍り

 好く我笑みき 食べ止まぬ


       かつはえひせん てにうけゐ
       おいしさのゆめ なほもらる
       よろこふあちそ むねをとり
       すくわれゑみき たへやまぬ


 昭和四十何年頃だったでしょう。「カルビーかっぱえびせん」の袋の裏に、以下のキャッチコピーがずらりと出ていたのですが、ご存知でしょうか。ことわざ、唱歌の一節、どこかで聞いた言い回しなどをもじって、えびせん宣伝の語呂合わせにしたものです。各文にはそれぞれ紋章風の絵が添えられていて、子供心にとても気に入りました。何度も何度も読み返し、呪文のようにこの語句を空で憶えているほどです。言葉の味わいというものを、菓子の袋に教わりました。

 小学生の時に正確に書き写しておいた文と絵を、大人になった現在しみじみと眺め、懐かしさで胸がいっぱいです。忘れ去られてしまうのが淋しいので、パソコンの外字機能やペイント機能を用いて再現し、ネットにアップさせていただきました。大げさに言うと、そうしなければならない使命≠ンたいなものを感じたのです! だから今日の一首≠ノも詠みました。宇宙戦艦ヤマトの歌じゃないけれど誰かがこれをやらねばならぬ 期待の人が俺ならば≠チてところです(笑)。
 でも私が話題にしなければ、もう知っている人も、懐かしむ人も、いなくなってしまうんじゃないかなぁ。えびせんへの愛情あふれる宣伝文句、なかなか楽しいでしょう? 私がこれほど好きなんだから、他にも好きな方がきっといらっしゃるはずです。良い記念になればと願う次第です。
 尚、これとは別種のパッケージで、
「かわいい子には旅をさせよ、えびせん持たせて送り出そ」
「這えば立て、立てば歩めの親心、えびせん買うも親心」
「いつまでもあると思うな親と金、えびせんも、すぐになくなるご用心」
 などのことわざシリーズや、季節感を歌った四季シリーズがあったことも記憶しています。残念ながらそのパッケージは、私の手元に残っていません。もう一度見たくてたまりませんが、カルビー本社にその資料は保管されているのでしょうか……?



平成30年3月19日(月)

        塚 口 満 喫


 散髪行けり 気持ち和し

 眠る間を経て 黒染めや

 この後 カレエライス食ぶ

 猶お店に居 好う酔ひぬ


       さんはつゆけり きもちわし
       ねむるまをへて くろそめや
       このあとかれえ らいすたふ
       なほおみせにゐ ようゑひぬ


 昨日は散髪に行って来ました。髪を触ってもらうのが気持ち良く、そのうえ店内は暑くもなく寒くもなく、なんともいえず居心地が好くて、ついうとうとしてしまいます。白髪染めもしてもらうので、染毛剤が髪に落ち着くまで二十分ほどかかるわけですが、その待ち時間さえ全く苦になりません。実にのんびりとくつろげます。
 そして散髪の後の楽しみが、近くのお店(たいてい「なか卯」へ行きます)での食事です。カレー好きの私のこと、いつものプレミアムカツカレー大盛をいただきました。ガラス越しに大通りを眺めつつ、ゆったりと美味に酔います。あぁ、いいなぁ……!
 今朝目覚めてすぐ、これだ、と思いました。メモ用紙に手を伸ばし、寝床の中ですらすら書き上げた今日の一首です。手応えはあったんですけどねぇ!
 今読み返すと、我ながら笑ってしまいますねぇ。「散髪行って、カレーを食って、それがどうした?」って歌ですよ。単なる日記じゃないですか(大笑)。自分でも何が言いたいのか解らんなぁと、今回は特にそう感じました(まぁ、今回に限ったことではないかもしれませんが……)。



平成30年3月18日(日)

        天 上 蓮 華


 木蓮を恋ふ 枝へ咲きて

 胸ほつと和す 笑み居ぬる

 白い花びら 微風に

 数多落ちけり 夢の様


       もくれんをこふ えへさきて
       むねほつとわす ゑみゐぬる
       しろいはなひら そよかせに
       あまたおちけり ゆめのやう


 庭の木蓮は六日前に蕾が一つ二つ開き始めたばかりでしたが、すぐに満開となり、早くも昨日で盛りを過ぎたようです。今日は大きな花弁が、ほろりほろりと数多く落ちて来ます。池の蓮とはまた違うけれど、これぞ散り蓮華≠ナすね。炒飯がすくえそうです。でも、すくってもらうのは炒飯ではなくて悩み多き人間≠フほうかな(笑)。汚れなき白い花びらが空から舞い落ちて来るので、極楽の蓮華の雰囲気満点でした。
 この分だと、明日にはほとんど散ってしまうんじゃないかな……。そう思って、とりあえず散り際の花を撮影しておきました(上の画像)。もっと晴れていたらよかったんですけどね。
 満開の時は、最高に良い天気でした! 下の画像、左が三日前、右が昨日の様子です。真っ青な空に、無数に花の白さが映え、ほんとに輝くばかりでした。幹のところから見上げると、白い花火のようですね! 太陽の光が透けて、蝋燭みたいに光ってますよ! これこそ巨大な枝付き燭台≠ナす! 綺麗!!
 白木蓮は、和風の庭にも洋風の庭にも合いそうですね。東洋の極楽≠フイメージと、西洋の天国≠フイメージを併せ持つ、和洋折衷の花。そんな感じがしました。

  



平成30年3月17日(土)

        冬 之 女 神


 根弱らぬぞや 冬の地へ

 青葉為すごと 精気起く

 田圃守れる 笑む神居

 白に冴えけり うつ田姫


       ねよわらぬそや ふゆのちへ
       あをはなすこと せいきおく
       てんほまもれる ゑむかみゐ
       しろにさえけり うつたひめ


 冬の女神はどうして「うつ田姫」というのだろうと、そのことばかり考えていました。そして私の中で、自分なりの考えがまとまりました。 「田」と付くからには、やはり田の神様だろう。だから「うつ」というのも当然「打つ」、つまり田を耕すことだろう。春になったらすぐに作付け出来るよう、土を休ませ、最良の状態で凍結の冬を越させ、その後の芽生えにつながるよう大地を守る、母性あふれる女神様なのだろう――。
 それを新いろは歌に詠んでみました。というか、それしか頭に浮かんで来なかったので……。
 やはり私は凝り性≠ネんですかねぇ。べつに暗い性格ではないのだけれど(笑)、考え込むと無口になって貝みたい∞不機嫌そう≠セと見られてしまうこともあるようです。でも、考え事をしていると、誰でもそういう時があるでしょう? まぁ、程度の問題ですね。
 確かに、周りの人を不愉快にしてしまってはいけないので、その点は気を付けようと思います。今日はそのことを、改めて自覚する日となりました(そう言いつつもこれが自分なんだ≠ニ思うと、内心は大笑いです)。



平成30年3月16日(金)

        通 過 春 礼


 胸満たす故 穏和に居

 雨風なれど 幸想ふ

 空 池 野山 潤ひて

 土筆生え来ぬ 歓べり


       むねみたすゆゑ をんわにゐ
       あせかせなれと さちおもふ
       そらいけのやま うるほひて
       つくしはえきぬ よろこへり


 我が家の庭にも土筆が出揃う頃となりました。つい先日は、土の中から固い頭がいくつか見えていただけなのに、ここ数日で何本も何本も、いっぺんに伸びた気がします。
 今日は朝から雨。少し強めの風が吹き、天候はやや荒れ模様でしたが、全然寒くありません。生暖かい風のせいでしょう、天も地も、春の女神佐保姫≠ノ抱かれている感じがし、不思議な安らかさを覚えます。ああ、この雨風が大地に潤いをもたらし、土筆を、そして草木を芽吹かせているんだなぁ……、そう思いました。小降りを見計らって、雨合羽も着ずに自転車で走り出します。通勤途中、雨粒に打たれてもまったく苦になりませんでした。
 ところで、その佐保姫≠歳時記等で調べていて、四季それぞれに女神がいることを知りました。『角川俳句大歳時記』の「うつ田姫」の項を引きます。
《四季の守護神として、古代から、春は佐保姫(佐保山は奈良東方にあり、東は五行説で春に配当される)、秋は龍田姫(龍田山は奈良西方にあり、西は五行説で秋に配当される)が知られていた。これに準じて、夏の神をつつ姫、冬をうつ田姫という。この言葉は『匠材集』(一五九七)に出るが由来は不明である。》
 この由来は不明≠ニいうのが気になってしまって、自分でも色々調べてみたのですが、どうしても判りません。残念です……!
「つつ姫」の「つつ」については「筒井(=筒状に丸く掘った井戸)」と見るのが妥当なようで(『広辞苑(第六版)』に「筒姫」と漢字表記あり)、暑くて水の涸れる夏場はやはり、井戸の神様に守ってもらうのだろうと思いますが――。「うつ田姫」に関しては、さんざん調べても、結局何の情報も得られませんでした。根拠のない私の勝手な想像では、「うつ田」とは田を打つことで、冬のあいだ放置される田畑を、女神様が代りに守ってくださるという意味ではないか――、とも考えました。さて、真実や如何に。



平成30年3月15日(木)

        寒 之 仕 舞


 ダウンジヤケツト お世話様

 あの冬を越え 慣れ着るよ

 羽根温もり 笑顔にす

 広い空愛で 道辺居む


       たうんしやけつと おせわさま
       あのふゆをこえ なれきるよ
       はねぬくもり ゑかほにす
       ひろいそらめて みちへゐむ


 今朝、自転車通勤の途中でダウンジャケットを脱ぎました。下はワイシャツだけなのに、身体がほかほかして少し暑かったのです。
 いよいよダウンも仕舞い時か……。しみじみそう感じました。
 思えばこのジャケット、ひと冬お世話になりました。暑がりで、何よりも身軽が一番と思っている私にとって、こんな便利なものはありません。どんなに寒い日も、これ一枚で済みます。分厚いコートを着る必要が全くありません(そもそも冬のコートを持ってないんですよ)。脱いだら小さく丸めて袋にギュッと仕舞えば、机の引出しにポンと入ります。普段、職場で服掛けは必要ありません。ほんとに重宝しました。
 そのダウンジャケットも、今季は今日で任期満了です。どうもお疲れ様でした。クリーニングの後、長い充電期間に入るわけですね。あとは薄手のジャンパーに引継ぎです。
 年度末だなぁ……。土筆の生えた春の野辺を、そよ風が渡っていくなぁ……。早く土筆採りに行きたいなぁ!



平成30年3月14日(水)

        草 庵 春 景


 あれ見渡せる 花の雲

 御寺打つ鐘 声遠し

 町避け棲む家 日和を得

 気分添へゐぬ 夢色に


       あれみわたせる はなのくも
       おてらうつかね こゑとほし
       まちさけすむや ひよりをえ
       きふんそへゐぬ ゆめいろに


 其角の「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」は当然、師匠である松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」を踏まえての作でしょう。両者を比較すると、その共通点と相違点が明確になります。
 まず共通点は、どちらも江戸の春を「鐘」によって捉えているということ、そしてどちらも自ら行動するわけではなく、傍観者の立場で詠んでいるということです。
 次に相違点は、其角の句は「近景」を「視覚的」「直接的」にとらえて「繁華」な「市中」を描き、芭蕉の句は「遠景」を「聴覚的」「間接的」にとらえて「閑静」な「郊外」を描いているということです。
「花の雲……」から感じられるのは、桜の名所(上野・浅草)の賑やかさではなく、訪ねる人もない草庵(深川)の長閑さ、この上ない穏やかさでしょう。それを、遠くからかすかに聞こえる鐘の音によって感じ取ったのでしょう。さらに言うなら、籠るような音の響きから、雲のような満開の桜をも感じ取ったのでしょう。桜楓社『俳句辞典 鑑賞』でも、
《芭蕉は草庵の中にいて、実際に鐘の音を聞いたのであろう。ただし花の雲は実際には見えなくても差支ない。芭蕉は鐘の音からそれを感じとったのである。》
 との解釈が示されています。まさに、言い得て妙だと思いました。
 様々に想いを巡らすと、時間の経つのを忘れてしまいます。
 今日の新いろは歌に、多少なりとも芭蕉≠フ風情を感じていただければ幸いです。



平成30年3月13日(火)

        神 田 界 隈


 福をよろしや 鐘さへも

 売れぬ日あらず 大江戸の

 めでたい春ぞ 並む店に

 声湧きつ居ん 町行けり


       ふくをよろしや かねさへも
       うれぬひあらす おほえとの
       めてたいはるそ なむみせに
       こゑわきつゐん まちゆけり


 宝井其角の句「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」を題材に、一首詠んでみました。
 この句はふつう「めったに売れそうもない寺の鐘でさえ売れない日はないという、大江戸の新春の繁栄ぶりである。(『旺文社古語辞典』より)」と解釈されています。つまり、鐘とは「寺の釣鐘(梵鐘)」だとする見方です。その一方、ネットで調べたところによると、鐘を「半鐘」と捉える見方もあるようです。火事と喧嘩は江戸の華≠ニいう言い回しにひっかけてのことでしょう。しかし、めでたい新春に火事を告げる半鐘はそぐわず、私はやはり梵鐘をイメージしたほうが良いと思いました。
 桜楓社『俳句辞典 鑑賞』にも、
《江戸の繁昌ぶりを梵鐘の売れ行きに象徴したところに、其角のすぐれた才智のひらめきがあり、いかにも都会人らしい発想がある。そのころ神田には事実梵鐘を売る店が多かったから、恐らく其角の嘱目の吟であろう。》
 との解説が加えられています。
 嘱目の吟(=目に触れたものを詠むこと)かどうかは別として、鐘を買うのが作者ではない以上、作者自身はあくまで傍観者≠ナあるべきだと感じました。句の詠み手は江戸の繁栄ぶりを冷静に分析し、面白がっているのです。「梵鐘」が売れるということなら、当事者ではない他人事として眺められますが、「半鐘」ということになると、詠み手自身が火事への不安や、防災意識の中に巻き込まれてしまいます。
 実際に「鐘ひとつ」が売れたかどうかは、この際問題ではないのです。作者が「売れぬ日はなし」と評価したからこそ、「江戸の春」の華やかさや賑やかさがそのまま伝わって来るのです。其角の句を改めて読み返し、今回はそんなことを考えました。
 ちなみに、上の画像は兵庫県伊丹市にある大空寺の梵鐘です。東京の神田とは無関係ですので、念のため。



平成30年3月12日(月)

        春 之 目 覚


 夜休まり 眠気失せ

 朝に居て声 木蓮を

 枝若芽増ゆ その蕾

 白いお花へ 少と開きぬ


       よるやすまり ねむけうせ
       あさにゐてこゑ もくれんを
       えたわかめふゆ そのつほみ
       しろいおはなへ ちとひらきぬ


 あちこちで木蓮の蕾が見られる頃となりました。
 繭のような、毛羽立った萼が少しずつ割れて、中から白い花弁が突き出て来ると、樹全体が豪華な西洋燭台になった感じがします。その白い蕾に朝日が当たると、たくさんの灯りが点されたみたいに、気持ちまで華やかにしてくれます。
「あぁ、今年はいっぱい蕾が出来たなぁ!」
 思わずそう叫んで、我が家にも花咲く季節が来たことを歓びました。
 紫も良いけれど、やはり私は白木蓮が好きです。ミルクのように滑らかな白が、清々しくもあり、優しくもあり、朝の気分によく合います。蕾でさえ、これほど胸をわくわくさせてくれるのです。満開になったら、最高にうっとりするでしょう!

   天空へ白木蓮の大合唱   望月富子

 たまたまインターネットで見つけた俳句を引かせていただきました。
 句の背景は存じませんが、この「大合唱」というところが好いですね! 大空へ向かって目一杯に咲き誇る白い静かさの中で、あたかも讃美歌のように、胸に大きな感動が響いてくるのを感じます。
 しばらく庭木の枝に見入りながら、爛漫の夢に酔いました。



平成30年3月11日(日)

        御 萩 北 窓


 水路闇ゆゑ つき知らぬ

 牡丹餅指せる 夜舟浮く

 言葉遊びの 御名前を

 艶に愛でむか 我居けり


       すいろやみゆゑ つきしらぬ
       ほたもちさせる よふねうく
       ことはあそひの おなまへを
       えんにめてむか われゐけり


 季節によって呼び方が変わるものの一つに「おはぎ」があります。昔から、春は「牡丹餅」、夏は「夜舟」、秋は「御萩」、冬は「北窓」と呼ばれていたようです(そういう説明がなされているのを、テレビでも見た覚えがあります)。それを新いろは歌に詠んでみようと考えました。
 おはぎの別名については、小学館『日本大百科全書』が詳しいです。「ぼた餅」の項に、
《春の彼岸につくるものをぼた餅、秋の彼岸につくるものを萩の餅、おはぎと称したといわれる。》
《ぼた餅にはまた「隣知らず」「夜舟」(ともにいつ搗[着]くかわからないの意)、「奉加(ほうが)帳」(搗[付]くところも搗かぬところもある)、「北の窓」(月知らず、半搗きの餅を使うのでいう) などの異名もある。》
 また、大修館『明鏡国語辞典』には「はんごろし【半殺し】」の項があり、方言的な言い方として、
《豆・ご飯などを粗くつぶすこと。また、おはぎ。「小豆を―にする」「―をつくる」》
 さらに、『広辞苑(第六版)』には「きたまど【北窓】」の項があり、
《(北窓の「つき(月)入らず」を「つき(搗)入らず」にかけた意という)萩の餅の異称。》
 と出ていました。
 しかし、私が調べた限りでは、なぜ夏が「夜舟」で、なぜ冬が「北窓」なのかを解説した書物は一冊もありませんでした。その点が今も引っ掛かっています(夜舟に乗るのも、北窓から月が入らないのも、季節とは無関係のはずです)。
 思うに、夏は納涼を兼ねた舟遊び等で夜に舟に乗る機会が多いから「夜舟」、冬は寒い風が吹き込まぬよう北窓を閉ざす(冬の季語に「北窓塞ぐ」があります)から「北窓」ということでしょうか(あくまでも私の考えです)。



平成30年3月10日(土)

        春 日 茶 飯


 山笑ふ今朝 悦なるに

 胸そよ風を 想ひゐて

 炒め御飯の 味嬉し

 ほろと掬へり 笑みゆきぬ


       やまわらふけさ えつなるに
       むねそよかせを おもひゐて
       いためこはんの あちうれし
       ほろとすくへり ゑみゆきぬ


 俳句の季語に「山笑う」があります。『角川俳句大歳時記』によると《木の芽や木の花に包まれる春の山を、朗らかに笑う人の姿になぞらえて「山笑ふ」という》とのことですが、今朝の六甲連山がちょうどそんな感じでした。空気は少し冷たかったけれど、実に穏やかに晴れ上がり、水色の空に映える紫がかった遠山の稜線が優しく微笑んでいる印象を受けました。
 春は「山笑う」、夏は「山滴る」、秋は「山装う」、冬は「山眠る」。四季それぞれに山の表情を写し取った言葉があって、なかなか味わい深いですね。
 ところで、妻は「日常茶飯」の「茶」の字を「チャ」と読んで、よく「日常チャハン」と言います(やはり「茶飯」と「炒飯」の掛詞かな?)。そこで私が、
「そんな毎日チャーハンばっかり食べへんやろ」
 と、いつもツッコミを入れるのですが、今日はまさしくそのチャーハンが朝食に出てきました!
 右の画像をご覧ください……!! 子供と一緒に私の分まで動物の顔になっていたので、
「うわぁぁぁぁ、えらい手の込んだ仕事やなぁ!」
 と、思わず感嘆の声を発しました(笑)。
 そういうわけで、今日の一首は「山笑ふ」と「炒め御飯」という、面白い取り合わせになりました。こりゃあ、普通考え付かないですよ、まったく。



平成30年3月9日(金)

        手 軽 一 膳


 炉で湯も沸きぬ お茶漬す

 胸に迫る 好い美味ぞ

 梅 海苔 あられ 昆布など

 映えゐしを食べ 笑顔咲く


       ろてゆもわきぬ おちやつけす
       むねにせまる よいひみそ
       うめのりあられ こんふなと
       はえゐしをたへ ゑかほさく


 昔はよく冷や飯をお茶漬にして食べたものです。
 お茶漬とは粗末な食事の代名詞でしたが、昨今は鯛や鰻を入れるなどして高級料理にもなっています。そして、温かいご飯にお茶をかけるのが、いわば当然になりました。今の時代、電気釜でいつでも熱々のご飯が食べられます。電子レンジもあるし、冷たいままのご飯にお茶をかけることなど滅多にありません。冷や飯というのも、なんだか懐かしい気がするなぁ……。
 今朝はふとそんなことを考えました。そこで、お茶漬の歌となったわけです。
 さて、詠み終えたあとで、第二句目の「好い美味ぞ」が少しひっかかりました。「美味」というのはよい味≠フことなので、これはいわゆる重言(じゅうげん。意味の重複)≠ナはないのか、と。
 不適切な重言としてよく例に挙げられるのが「馬から落馬する」「あとで後悔する」「一月元旦」「まだ未定」などです。くどい表現ですね。ところが、大修館『明鏡国語辞典』では、《意味が明確になる、強調される、新しい意味が加わる、そもそも意味の重なりではないなど、適当な理由があって「不適切な重言」ではないもの》について、さらに説明が加えられています。そこには、
《「一番最初」「一番最後」「よい効果」は、意味を強調して明確にする。》
 とありました(他に「一週間のあいだ」「今現在」「過半数を超える」「桜の花が開花する」などの例も挙がっていました)。
 それなら……! 「よい美味」という言い方も、間違いではなさそうです。
 そんなわけで、今日はお茶漬から、言語表現の問題へと話が発展しました。言葉というのはほんとに面白いなぁと、改めてそう感じました。



平成30年3月8日(木)

        希 望 象 徴


 実に大水ぞ 船揺られ

 陸目指すやな ノア神話

 枝持ち帰る 鳩居て笑む

 また精気を得 歓びぬ


       けにおほみつそ ふねゆられ
       りくめさすやな のあしんわ
       えもちかへる はとゐてゑむ
       またせいきをう よろこひぬ


《それからノアはまたハトを飛ばしてみたが、ハトは足を止めるところがないので、ふたたび箱舟にもどった。それから七日たって、またハトを放すと、こんどはハトはその日の暮れ方、オリーブの若葉をくわえて帰って来た。これによって、ノアは水が地上を退いたことをたしかめたが、それから一週間後にふたたびハトを放つと、ハトはもう帰らなかった。そしていよいよ水が地を去ったことを知った。やがて、
「箱舟より出よ」
 という神の命に従って、ノアは家族とけものを連れて箱舟を出、久方ぶりになつかしい大地を踏みしめた。これによって人類は絶滅からまぬがれ、ノアの子孫たちはまた地上に繁栄していった。》
 自由国民社『改訂増補新版 故事名言・由来・ことわざ総解説』(一九八二年刊) から引用しました。有名な「ノアの大洪水」伝説です。
 鳩が平和≠フ象徴となったのは、この神話に由来するらしいですね。ノアの放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ったことが、人類が再び繁栄する兆しとなったわけです。それを新いろは歌に詠んでみようと思いました。
「はと」「へいわ」「おほみづ」「ノア」「ふね」……と言葉を拾ううちに、わりとすらすらと仮名が埋まってゆきました。どうしても「オリイブ」が詠み込めずに苦労しましたが、鳩の活躍は「枝持ち帰る」ということで、なんとか表現できました。今回、自分としてはやり遂げた♀エがあり、一首の中に神話の内容がまあまあ上手くまとまったと思っています。



平成30年3月7日(水)

        平 安 吉 兆


 胸膨らみぬる 鳩も居り

 松枝揺れにし 威勢やな

 梅綻んで 朝の地へ

 若竹生ひ 末ぞ良き


       むねふくらみぬる はともをり
       まつえゆれにし ゐせいやな
       うめほころんて あさのちへ
       わかたけおひ すゑそよき


 日の出の頃、お寺の松の梢に鳩が一羽、ぽつんと留まっているのを見ました。膨らんだ胸に朝日を浴び、鳴きもせず、きょろきょろと首を動かすこともなく、高い枝でただじっと風を受けているのです。鳩といえば広場や公園で忙しげに群れながら、先を争って地面をつついているイメージが強いですが、今朝の鳩はまさに孤高を貫く¢カ在に見えました。超然≠ニしたその姿が、とても印象的でした。
 鳥と木の取り合わせとして、梅に鴬、竹に雀、柳に燕、卯の花に時鳥、そして、松には鶴とよく言われます。しかし「松に鳩」も悪くはないな……。そう感じました。
 鳩は、平和の象徴です。また「鳩に三枝の礼あり」とも言います(鳩の子は親のとまる枝から三枝下にとまることから、子は親に対して礼を重んじ、孝をつくさなくてはならないことのたとえ)。松の鳩は、そんな一面を見せてくれた気がします。
 今日の一首は、平和の鳩に、松竹梅、始まりの朝、末広がり、それらを全部詠み込むことができ、非常におめでたい歌となりました。いやぁ、よかった、よかった。



平成30年3月6日(火)

        太 陽 享 受


 洗濯物を 山と干す

 我空眺め 笑み得ゐぬ

 日差しは溢る 胸に受け

 落ち着いてゆき 悦べり


       せんたくものを やまとほす
       われそらなかめ ゑみえゐぬ
       ひさしはあふる むねにうけ
       おちついてゆき よろこへり


 今朝は曇って肌寒く、星野立子の句「昃(ひかげ)れば春水の心あともどり」をふと思い出しました。
 まだセーター要るかなぁ……。そうも考えましたが、暑がりの私のことです。一度春だと決めて身軽になったので、もう後には退きません!
 案の定、昼までにはすっかり晴れ上がり、太陽燦々≠フ午後となりました。真っ青な空、暖かな日差しを全身で感じ、なんとなく光あふれる≠ニいう言葉が浮かんで来ます。これを題材に、一首詠んでみようと思いました。
 今日は最高の洗濯日和です。洗濯物を干す手伝いをしながら、頭の中では仮名文字が躍っています。とりあえず洗濯≠ニいう語も選択≠オよう……。独りでダジャレを交え、独りで「おやじギャグか!」とツッコミを入れ、仮名埋め作業を進めます。横から見てたら病気≠ナしょうね(苦笑)。
 今回は「ま」の字が余ってしまい、しかたなく「やま」という語を用いました。そんなに洗濯物が山≠ルどあるわけじゃないんです(笑)。誇張法≠ニいう、これも一つの表現技法ですかねぇ!(← 結果論ですけどね……。)



平成30年3月5日(月)

        四 日 日 和


 大空や地を 夢色へ

 三日好う過ぐと 雛仕舞ふ

 我この胸に 春も咲き

 セエタア脱げり 笑んで居つ


       おほそらやちを ゆめいろへ
       みかようすくと ひなしまふ
       われこのむねに はるもさき
       せえたあぬけり ゑんてゐつ


 昨日はほんとに天気も良く、大安だったので、お雛様を仕舞うことにしました。晴れた日に片付けるのが湿気を閉じ込めずに良いそうですし、万事において吉とされる日なら、まさにうってつけでしょう。
 ガラスケースに入った三段飾りなので、人形を一つ一つ箱に収める手間がなく、ケースごと段ボールの箱に入れれば済むわけです。飾ってある時はいつもガラス越しだったので、仕舞う際に一度ケースをはずし、その前で着飾った子供と一緒に写真を撮ったりしました。儀式≠ェ終わると、今度はしみじみと雛人形に見入ります。間近に見るお雛様は、やはりとても綺麗です。白いお顔、優美な眼差し、穏やかな表情、色鮮やかな衣装、これが日本の伝統美というものなんだなぁと、改めてそう感じました。
 午後からは徐々に曇りましたが、とても暖かい日で、ついにセーターを脱いで外へ出ました。天も地も、心も身体も、胸の中まですっかり春です。
 今朝出勤時も、もうセーターは必要ありませんでした。しかし、あいにく雨の月曜日。
 あぁ、やっぱり昨日、お雛様を仕舞っておいて正解だったなぁ。お雛様、来年まで、どうぞゆっくりお休みください――。
 少し雫に濡れながら、そんな気持ちになりました。



平成30年3月4日(日)

        骸 骨 之 目


 髑髏置き物 ペン立てぞ

 味はひ深げ 居座れる

 世去り悩まぬ 骨ゆゑに

 生死ら超え 無を見つめ得


       とくろおきもの へんたてそ
       あちはひふかけ ゐすわれる
       よさりなやまぬ ほねゆゑに
       せいしらこえ むをみつめう


   がいこつがケラケラ笑ってこう言った
   どうせ てめェらみんなくたばって
   オイラみたいに なっちまうのによ
   だれがえらいもあるもんか

 フォークの神様、岡林信康の「がいこつの唄」をふと思い出しました。
 また、骸骨といえば一休禅師の逸話も有名ですね。
 一休は正月早々、墓場から拾って来た髑髏を竹の棒に突き刺し、新年を祝う家から家へ「御用心、御用心」と言いながら歩き回った。ある人がこれを見て、
「みながこのように祝い喜んでいる時に、そんなむくつけき髑髏をば家の口へ差し出されるのは、お考え違いでしょう」
 と非難すると、一休は、
「さあ、これを見るがよい。目が出て、穴ばかりが残ったのを、目出たしというのじゃ。(中略) 人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもないのじゃ」
 と言ったとか〔西部文浄 著『禅僧の逸話』(淡交社) より〕。
 以上のことを思い返し、改めて面白いなぁ≠ニ感じました。
 私は骸骨のミニチュアがわりと好きです。べつにマニアではありませんが(笑)、家には骸骨をかたどった夜光キーホルダーと、栓抜きがあります。先日はたまたまペン立て(上の画像)を買ったので、それを題材に一首詠んでみました。
 でも、ミニチュアだから好いんですよ! さすがに大きな物(等身大模型とか)は無気味ですし、いくらなんでも本物は怖いです……(苦笑)。



平成30年3月3日(土)

        入 江 春 望


 白の大船 湾に映え

 青空日和 港町

 梢揺れたる 木も芽ぐむ

 さて絶景や 神戸居ぬ


       しろのおほふね わんにはえ
       あをそらひより みなとまち
       こすゑゆれたる きもめくむ
       さてせつけいや かうへゐぬ


 今日は女の子の節句、雛祭りなので、やはり娘が喜ぶ所へ連れて行ってやろうということになり、「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」へ行って来ました。前回来た時はまだ一歳三ヶ月そこそこだったので、さほど実感がなかったようです。今回は幼いながらも、大好きなアンパンマンの聖地≠ヨ来たという認識がかなりあるらしく、結構喜んでくれたので良かったです。しかし館内は人であふれ返り、我が子から目が離せず、親のほうはくたくたに疲れ果ててしまいました。
 外へ出て春を感じ、しばし息抜きです。モザイク大観覧車にも乗りました。高い所から港を見下ろす気分は最高です。停泊中の豪華客船に、遊覧船。海を隔てて中突堤のオリエンタルホテル、メリケンパーク、そびえ立つホテルオークラ神戸に、ポートタワー、そして街並みの背景には六甲連山。海と山と街が調和した眺望に、しばし見惚れていました。
 びっくりドンキー神戸ハーバーランド店での昼食も、心落ち着くひとときでした。窓側の席でゆったりと海を眺めつつ、チーズカリーバーグディッシュをいただきました。生ビールをクーッと一杯、あぁ〜旨い! これぞ休日ですよ……、ねぇ!



平成30年3月2日(金)

        瀬 戸 味 便


 玉筋魚くぎ煮 春をぞ呼び

 皿へと載せ 飯食ぶや

 もちろん好けり 我笑みぬ

 胸甘う居て 悦覚ゆ


       いかなこくきに はるをそよひ
       さらへとのせ めしたふや
       もちろんすけり われゑみぬ
       むねあまうゐて えつおほゆ


 今年もお姉さんが持って来てくれたと言って、妻が夕食にイカナゴの釘煮を出してくれました。甘ったるいのは良くないし、かといって生姜の味が勝つと小さい子供が食べられないからと、味付けに気を遣ってくれたそうです。甘過ぎず、辛過ぎず、ちょうど好い風味で美味しくいただきました。季節の味ですねぇ。
 ところで、このイカナゴという名前です。東京堂出版『たべもの語源辞典』(清水桂一 編) によると、
《カマスの子に似ているからカマスゴともいうのだが、カマスと区別がつきにくいというので如何児(いかなご)といったとか、如何なる名の子かという意味だとか、この魚は大きくなってどんなもの(如何なる物)になるだろうかということで、「如何成子」と名づけたとかいう。いずれにしても、実にしゃれた名前である。》
 との解説がありました。ところが、今度は『広辞苑(第六版)』で「かますご」を調べると、
《かますご【叺子】 玉筋魚(いかなご)の幼魚 ⇒ 叺に包んで輸送することから、関西地方でいう。》
 とありました。「叺(かます)」は、藁むしろを二つ折りにして作った袋のことだそうです。
「梭魚(かます)」の子に似ているからカマスゴなのか、「叺」に包んで輸送したからカマスゴなのか……。あるいは、その両方の意味があるのか……?
 語源というのは、まったく面白いものですね。



平成30年3月1日(木)

        生 暖 朝 嵐


 春大風 地を吹き荒れ

 びゆんと枝鳴り 声すべし

 うねらむにや 雲湧いて

 その様見つめ 蹌踉けゐぬ


       はるおほかせ ちをふきあれ
       ひゆんとえたなり こゑすへし
       うねらむにや くもわいて
       そのさまみつめ よろけゐぬ


 今日未明から朝にかけて、春の嵐が吹き荒れました。大風だと思った途端、妙に心が躍りました。
 ごうごうと吹く風の音を聞くといつも思い出すのが、アニメ『アルプスの少女ハイジ』です。フランクフルトへ行ったハイジがホームシックにかかり、深夜の暴風に気づいて「あ、嵐!」と歓喜の声を上げ、アルプスの山を懐かしむシーンがあります。
 自然の驚異に対し、怖れよりも歓びが先に立つのは、どうやら私だけではないようです。
 無論、被害があっては困るのですが、瞬間的に嬉しさを感じる気持ちはどうにも止めようがありません。 結局今朝の強風が、半月前から待ちに待った近畿地方の春一番となりました(昨年より九日遅いとのことでした)。
 そして……。「春一番」と聞いて思い出すのは、沢口靖子が唄う「春よ来い」(川田たまき 作詞、久米小百合 作曲) です。これは彼女のファーストアルバム『春よ来い』(ファンハウス、一九八五年発売) の巻頭を飾る曲で、当時私は何度も何度もこの音盤に聴き入り、かなり心酔しました。

   春一番が ふきあれる頃
   子供みたいに はしゃぎたくなる
   窓の外 すべてが 輝いて
   待ちわびてた 想い あふれてる

子供みたいに はしゃぎたくなる≠ニいう気持ち、ほんとによく解ります。
 季節感と日本情緒あふれる名曲揃いの『春よ来い』、廃盤になって久しいので、今では知る人もほとんどいないのが残念です。



 2018年3月 1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日

前月へ 翌月へ HOME

inserted by FC2 system